ピート・タウンゼンド(Pete Townshend)まとめ!経歴・使用楽器・代表作品など
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イギリスのロックバンド、「ザ・フー」のギタリストあるピート・タウンゼント。
バンドの楽曲の9割以上を担当し、基本アレンジまでこなすソングライターでもあります。
ギターを構えた姿がカッコいい183センチの長身と、激しいステージ・アクションで観客の目を楽しませてきました。
小説家としても活動する多才なアーティストを紹介します。
経歴
ピート両親・タウンゼンド(Pete Townshend)は1945年5月19日、ロンドンのチズウィックで生まれました。
父はサックス・プレイヤー、母はシンガーという音楽一家です。
ツアーで留守がちな両親に代わり、祖母が彼を預かることが多かったとのこと。
その祖母から12歳のクリスマスにギターをプレゼントされました。当初は弾きこなすのが難しく、4弦のバンジョーで練習したそうです。
少年時代にジョン・エントウィッスルと出会い、ジャズ・バンドを結成。
初めて組んだバンドはすぐに消滅しましたが、別のバンドに共に参加するなどしていました。
1961年にエントウィッスルが先輩であるロジャー・ダルトリーに誘われ、ザ・ディトゥアーズに加入、続いて翌年にはタウンゼンドも加入。
何度かメンバーチェンジを経て1964年にドラマーとしてキース・ムーンが加入、先に同名のバンドが存在したためバンド名をザ・フーに改め、7月にメジャー・デビューしました。
The Who – I Can’t Explain
マネージャーのアイデアでデビューシングルは「ザ・ハイ・ナンバーズ」というバンド名で発表しましたが不発、翌年改めてザ・フーとして再デビュー。
タウンゼンドは新しいマネージャーにダビング録音ができるテープレコーダーを渡されました。
マルチ録音を使うことで、ギターだけでなくベースやドラムなどの基本アレンジもし、楽譜を書かずにデモ音源をメンバーに渡すという方法で作曲。再デビュー曲「アイ・キャント・エクスプレイン」をはじめ次々とヒット曲を生み出しました。
彼自身も作曲家としても飛躍することになり、メンバーでただ一人ソロ活動をする必要もない状況でした。
The Who – I’m Free
1967年、インド人導師であるメハー・ババの教えに感銘を受け、帰依。
それまでの薬物漬けだった生活を一旦やめ、意欲的に作品作りに取り組むようになり、ロックとオペラを融合させた「ロックオペラ」というジャンルも生み出しました。
1969年の『トミー』や1971年の『フーズ・ネクスト』はババの教えの影響が大きかったとも語っています。
タウンゼンドの帰依をメンバーが寛大に受け止めていたそうです。
長らくソロ活動をしていなかったタウンゼンドでしたが、メハー・ババの誕生日祝いに作られたチャリティ・アルバムに楽曲を提供。
ただ、2回にわたって作られたアルバムは数が少なく、ほとんどが信者の手に渡ったことで海賊版が出回ることになりました。
事態の収拾のため、2枚に収められたタウンゼンドの楽曲やその他の未発表曲を収めた『Who Came First (邦題:現人神)』をリリース、これが正式な彼の最初のソロ・アルバムとなりました。
1978年、ドラムのキース・ムーンが急逝。
後任やサポートメンバーを迎えた新体制でツアーに臨み、決まっていたスケジュールをこなしました。
しかしキースの死を契機にタウンゼンドの興味がソロ活動へ移ったこと、それに対し新ドラマーのケニー・ジョーンズが不満を露呈し関係が悪化したこと、ストレスで酒やドラッグに溺れ深刻な状態に陥ったことなどもあり、1982年にザ・フーは一旦解散することになりました。
以降、ザ・フーは1985年のライブ・エイドや1989年の結成25周年記念ツアーなどで単発的に再結成しながら活動し、1996年に本格的なツアーを再開。
2002年、ツアー開始前日のエントウィッスルの薬物による心臓発作での急死で、オリジナルメンバーは2名になりましたが、ザ・フーとしての活動は続いています。
2012年にはロンドンオリンピックの閉会式でも演奏しました。
一方、ソロでは1993年のアルバム『Psychoderelict』が商業的に芳しくなく、以降はアルバムを制作していません。
音楽以外では、ラジオドラマ「ライフハウス」の制作や大作となった自叙伝『Who I Am』を出版するなど幅広く活動しています。
楽器とプレイスタイル
ギター
現在では聴力障害の影響でアコースティックギターであるギブソン・J-200を弾くことが多くなりました。
それまでのメインで使用したギターは以下。
リッケンバッカー(360/12など)
1964年のデビューから1966年まで使用。1989年の25周年ツアーでも演奏しました。
フェンダー・ストラトキャスター
1967年から約2年間使用。
また1996年からはエリック・クラプトンモデルのものを使用しています。
ギブソン・SGスペシャル
1968年から72年まで使用しました。
ピックアップはP-90、色はダークチェリーのものと白のものがありました。
多くのイベントで使用した楽器で、タウンゼンド自身相性が最高によかったと話しています。
ギブソン・レスポール・デラックス
SGに代わりメインとして1972年から10年の間使用。
ピックアップにはミニハムバッカーを2つ、その間にハムバッカー1つを搭載、コントロールノブの横にトグルスイッチが2つ設けられていました。
タウンゼンドのシグネイチャーモデルも発売されました。
フェンダー・テレキャスター
1979年から80年代はハムバッカーを2個搭載したシェクター・テレキャスタータイプと並行して使用しました。
1960年代にも使用していたことがあります。
なおライブ・エイドではシェクター製を演奏しました。
弦は011~の太いゲージを選んでいます。
アンプ
ザ・フー全盛期にはハイワットを、現在はフェンダーをメインに使用。
ハイワットはそもそもタウンゼンドとジョン・エントウィッスルの要望を叶えるために作られたブランドです。
タウンゼンドはそれ以前のサウンド・シティアンプを1967年から使用し、1968年に改良を求めましたが製造側が拒否。
しかし翌年、元製造者によってカスタム版サウンド・シティL100アンプが作られました。
これがハイワットDR103という名前となり、1970年にはCP103「スーパー・フー100」へと改良されました。
タウンゼンドはこのモデルを10年以上使っていました。
大音量でクリーンなサウンドを出せる設計で、ステージでの大音量のコードプレイが得量の彼にはぴったりのアンプでした。
演奏中にも楽曲展開に合わせて調整するなど、アンプを使いこなしていたようです。
他に、マーシャルのアンプを使っていた時もありました。
直径12インチのスピーカー8個を入れた縦長の大型キャビネットを要求したタウンゼントに対し、マーシャル側が12インチスピーカー4個を入れたキャビネットを2段重ねで使うことを提案しました。
その上にアンプ部を重ねた「マーシャル・スタック」とも呼ばれるスタイルは、その後マーシャル社のトレードマークになりました。
プレイスタイル
演奏時の激しいアクションが有名で、伸ばした右腕を大きく回して弾く「ウィンドミル奏法」は彼が初めて行いました。
元々ローリング・ストーンズのキース・リチャーズのウォーミングアップの仕草をパフォーマンスだと勘違いたままタウンゼンドが真似したことがきっかけですが、布袋寅泰など後のギタリストがさらに真似し受け継がれていくことになりました。
ギターを破壊するステージパフォーマンスも有名でした。
ライブ中、偶然天井に当たってギターが壊れたことがきっかけでなのですが、激昂しやすい性格のためか怒りに任せて破壊することも多かったようです。
2004年の初来日公演でも行いました。
エリック・クラプトンやジェフ・ベックなどソロ演奏を聴かせるギタープレイヤーが目立つ60年代において、リズムギターとリードギターを合わせた「パワー・コード」奏法を用い、独自のスタイルを確立しました。
本人曰く「ほとんどのギタリストと同じくらいギターを上手く弾ける」とのことですが、プレイの面では派手なコードを大音量で鳴らすことの方に特化していったようです。
ステージでは度々フィードバック奏法も試みており、彼が「最初にフィードバック奏法をした」とも話しています。
代表作品
My Generation(1965年)
ザ・フーの1stアルバムです。
アメリカでは収録曲を変えて1966年に『The Who Sings My Generation』というタイトルで発売されました。
カバー曲も3曲含まれます。
タイトル曲「My Generation」は全英チャート2位を獲得しました。
Quadrophenia(1973年)
ザ・フーの6作目のアルバムです。邦題は『四重人格』
タウンゼンドがすべての曲の作詞作曲を担当しました。
4枚目の『トミー』以来のロック・オペラで、ロンドンのモッズ少年「ジミー」の多重人格と精神的な葛藤を主題にしています。
シンセサイザーを初めて導入し、効果音も多用したアルバムですが、ザ・フーにはキーボーディストがいないためステージでの再現は当初かなり困難なものでした。
1979年、このアルバムを元にした映画『さらば青春の光』が公開され、モッズ・ブームが再燃しました。
2015年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団によるオーケストラ版『Pete Townshend’s Classic Quadrophenia』がリリースされるなど、多様な再現が行われています。
Empty Glass(1980年)
3枚目のソロアルバムですが、新作のみを収録した初めての作品です。
ソロ作品の中では最高の売り上げを記録しました。
しかし、急逝したキース・ムーンの後任に迎えたケニー・ジョーンズが、タウンゼンドは良曲をソロで発表してしまうと不満を口にし、急速に二人の関係が悪化。
後にザ・フーが解散するきっかけになってしまった作品ともなりました。
自伝『Who I Am』(2012年)
400ページを超える超大作の自叙伝です。
バンドでのメンバーとの関係や葛藤、メハー・バハのことや児童ポルノ事件で一時身柄を拘束されたことなどを記しています。
ニューヨークタイムズでは5位にランキングされるなどヒット作となりました。