キース・リチャーズ(Keith Richards)まとめ!経歴・使用ギター・プレイスタイルなど
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ロックのイメージってどんなものでしょうか?
「不良」「ドラッグ」などを思い浮かべるなら、今回ご紹介するキース・リチャーズはまさしくその代表格です。
ただし、それはあくまで一時見せた顔の一つであるにすぎません。
演奏に対しては「生身」で「ライブ」を貫く彼の姿勢は、今なお活躍を続けるバンド「ローリング・ストーンズ」にも見ることができますよ。
経歴
キース・リチャーズ(Keith Richards)はイギリス、ケント州ダートフォードで1943年12月18日に生まれました。
デビューから1978年まで「リチャード」と名乗っていましたが、これはリトル・リチャードなどのスターと同じ姓を使って「ポップスター」らしいイメージをという当時のマネージャーのアイデア。
ギターに目覚めたのは13歳の頃、母にギターをプレゼントされたことがきっかけです。
1960年、幼少時からの知り合いだったミック・ジャガーと再会し、お互いの興味がロックやR&Bということがわかりバンドを結成。
キースは面白いことが起こりそうな予感を信じて、ロンドンに引っ越しました。
実際に2年後にはブライアン・ジョーンズと出会い、ブルースのコピーバンドとしてローリング・ストーンズが走り出します。
さらに翌年、ベースのビル・ワイマンやドラムのチャーリー・ワッツをメンバーに加え、「カム・オン」(チャック・ベリーのカバー)でデビューしました。
The Rolling Stones – Wild Horses (Live)
ここまでカバーバンドだったストーンズですが、マネージャーの音頭でキースとミックによるオリジナル曲作りもスタート。
2人は「ジャガー/リチャーズ」としてヒット曲を連発、69年にはリーダー格だったブライアンが脱退したことで、名実ともにストーンズの中核となりました。
バンドは大きく成長していきますが、その反面、キースはドラッグによる度重なる逮捕や治療、またミック・ジャガーとの不仲などといったトラブルも絶えず、80年代にはとうとう、ローリング・ストーンズ解散の危機に追い込まれました。
Keith Richards – Trouble (Audio)
ドラッグ治療に際して、「キースは全身の血液を全て交換した」という話があります。
麻薬治療について聞かれたときにその辛さを語りたくなくて作ったウソだそうですが、人間味があり飾るところがないといわれるキースの人柄を少し垣間見ることができますね。
情にも篤く、自身の息子を亡くした経験からエリック・クラプトンの息子が亡くなったときには無理に会いに行かず、追悼は手紙に託したそう。
また東日本大震災発生の折にはすぐさまメッセージを発信し、Tシャツを販売した収益金を被災者の支援に充てました。
Keith Richards and the X-Pensive Winos: Struggle
ところで、ミックとの軋轢は本格的なソロ活動を始めた彼をキースが良く思わなかったことが一因だとか。
そんなキースもチャック・ベリーへの感謝の思いを込めた還暦祝いのドキュメンタリー映画制作をきっかけに、「キース・リチャーズ&エクスペンシヴ・ワイノーズ」というソロ・プロジェクトを立ち上げました。
メンバー中一番遅いソロ活動開始でしたが、1988年には初のソロ・アルバム『Talk Is Cheap』リリースしています。
そんなこともあり自然と互いの関係も変化したのか、90年代直前にようやくミックとキースが対面、新たなアルバム『スティール・ホイールズ』を発表。
日本も含め世界各地を巡る大規模なツアーも行いました。
21世紀を迎えて還暦を過ぎた現在は、エクスペンシヴ・ワイノーズの活動はしていません。
2012年、ローリング・ストーンズは結成50周年を迎えました。
写真集『50』を皮切りに、ドキュメンタリーへの出演、コンピレーションアルバム、ライブツアーなど様々な活動をすることで50周年を祝いました。
基本的に「ミュージシャン」のキースですが、映画にも出演しています。
『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』の主人公「ジャック・スパロウ」はキースがイメージだとか。
ロックが反逆者の象徴であることが、反逆者としての海賊の着想につながったそうです。
「映画出演なんかしない」と宣言していたキース自身もジョニー・デップの熱望によって3作目からジャック・スパロウの父として出演、劇中でギターも弾いています。
楽器とプレイスタイル
楽器
彼のトレードマークといえば、「6弦を外したギター」
60年代後半からオープンGチューニングを取り入れ、6弦を外しています。
結果的にバンジョーの一般的なチューニングと同じになりましたが、コードを指1本で抑える際に6弦が邪魔なことや、緩んだ6弦から出るノイズを嫌ったことが理由です。
60年代は主にギブソン、70年代からはフェンダー・テレキャスターを主に使用していますが、その他にも様々な機種を使用しています。
1989年~90年のツアーではミュージックマンのシルエットを使用しましたが、この時の楽器は「何かしら自分で手を加え」てしまう彼が「そのままで素晴らしい」というほど、グッとくるものだったそうですよ。
プレイスタイル
音楽の世界へ常にアンテナを張っておりビジネスマン的な才覚も持ち合わせたミック・ジャガーに対し、キースは流行の音楽そっちのけでバンドマンとして「生身の音楽」にこだわりを持っています。
スーパー・ギタリストと言われるような超絶テクニックがあるわけではありませんが、技術ではない「キース・リチャーズ」らしいサウンドがストーンズの音楽を作り上げているともいえます。
そんな彼のプレイスタイルの変化は、ローリングストーンズの発展にも大きく影響しました。
コピーバンドとしてスタートした初期は、彼のプレイもチャック・ベリーなどのコピーの域を出ませんでした。
しかし、「サティスファクション」などオリジナル曲を作るようになると、キャッチーなリフを演奏するようになりました。
(I Can’t Get No) Satisfaction (Charlie is my Darling – Ir…
これぞキース・リチャーズ!というスタイルになるのはもう少し後の1960年代後半。
1966年頃のメンバーのドラッグによる逮捕などでツアー活動が停滞していた時期を利用して、キースはブルースのレコードを聴き漁って
研究し、戦前ブルースの特徴であるオープン・チューニングを自身のギターに取り入れたのです。
同じ時期にチョーキング・ビブラートにも挑戦。
1968年のアルバム『ベガーズ・バンケット』ではそのどちらも見事な演奏で披露しています。
さらに、アメリカのカントリー・ロックのパイオニアであるグラム・パーソンズと交流したり、ライ・クーダーのスライド・ギター奏法から強く影響を受け、「オープンGチューニング」を取り入れました。
これにより、キースの象徴「6弦を外す」に至ります。
当のライ・クーダーは「キースに盗まれた」と主張しているそう。
いずれにせよ、これによってさらに多くのヒット曲が生み出されました。
The Rolling Stones – BROWN SUGAR (ALTERNATE VERSION FEAT. ERIC CLAPTON) ft. Eric Clapton
1969年、ブライアンに代わってセカンド・ギタリストとしてミック・テイラーが加入。
キースはリズムに専念するようになり自身のスタイルを確立、「史上最高のリズム・ギタリスト」と呼ばれるようになりました。
74年にテイラーが脱退してキースと似たスタイルのロン・ウッドが加入すると、今度はリードとリズムをきっちり分けることができない、独特の絡みが特徴のサウンドを奏でるようになりました。
ローリング・ストーンズはメンバー全員が自分のパート以外の楽器もこなせるバンドです。
キース・リチャーズも例外ではなく、一部の楽曲ではベースやピアノ、キーボードなどの楽器を扱っています。
またボーカリストとしても、リードボーカルのミック・ジャガーとは違った個性的なハスキーボイスが高い評価を得ています。
もとは線の細い声でしたが、70年代後半にドスの効いた味のある枯れた声に変化したそうです。
近年はライブ中盤のミックの休憩中にキースが2曲ほど歌うことが定番になっています。
代表作品
Beggars Banquet(1968年)
しばらくの間、流行のサイケデリック路線だったストーンズがブルースの原点に回帰したアルバム。
悪魔崇拝と受け取られて有名になったローリング・ストーンズの代表曲「悪魔を憐れむ歌」も収録。
Let It Bleed(1969年)
このアルバムを製作中にオリジナルメンバーだったブライアン・ジョーンズは脱退(死亡)、後任のギタリスト、ミック・テイラーが加入しました。
ロックアルバムの古典としても傑作。
Sticky Fingers(1971年)
ローリング・ストーンズが設立した「ローリング・ストーンズ・レコード」からリリースした最初のアルバム。
中でも「Can’t You Hear Me Knocking」は7分を超える大作です。
ミック・テイラーはこの作品からフル参加しています。
メインストリートのならず者(1972年)
原題は『Exile on Main St.』、初の2枚組で傑作。
キースが歌う「Happy」は当初の評価こそ批判的でしたが、現在はロック史上でも優秀な作品と評価されています。
山羊の頭のスープ(1973年)
原題は『Goats Head Soup』
ファンクやニュー・ソウル寄りの作品。
中でも「悲しみのアンジー」はストーンズのバラードの中でも高評価で、多くのアーティストがカバーもしています。
タイトルのアンジーが誰かについて憶測が飛び交ったこともありますが、キースの娘の名前がアンジェラであることや言葉の響きが良かったことがタイトルの決め手になっただけのようです。
It’s Only Rock ‘N Roll(1974年)
ミック・テイラー(ギター)はこのアルバムを最後に脱退しました。
前作『山羊の頭のスープ』よりもソリッドなサウンドに仕上がっています。
Black and Blue(1976年)
ミック・テイラーに代わりロン・ウッドが加入した最初のアルバム。
ブラックミュージックに大きな影響を受けていて、レゲエやジャズ、ファンクといった新しいリズムを取り入れています。
このアルバムの楽曲は全て一度以上ライブでも演奏されています。
Love You Live(1977年)
絶頂期のライブ・アルバム。
キースはこの作品までクレジットを「キース・リチャード」としていました。
次作から「リチャーズ」に姓を戻しています。
女たち(1978年)
原題は『Some Girls』
全体的にハードなサウンドの楽曲が多いアルバム。
この作品でパンクやディスコ・ミュージックがブームだった70年代後半にストーンズが再評価され、ロックバンドとして地位を確立することになりました。
Dirty Work(1986年)
「6人目のストーンズ」といわれたイアン・スチュワートが参加した最後の作品として重要なアルバム。
メンバーの仲を取り持っていた彼の死は、ストーンズを解散の危機に追い込むほどの重大な事件でした。
とりわけソロ活動を本格的に行い始めたミックとストーンズの活動がメインだったキースの軋轢は激化、ほとんどキース主導で制作されたことから「キースのアルバム」とも呼ばれます。
隠しトラックとして収録された「キー・トゥ・ハイウェイ」はスチュワートへの追悼の意味も込められています。
Steel Wheels(1989年)
険悪だったミックとキースが関係を修復し、制作したアルバム。
8年ぶりにワールドツアーも行いました。
ビル・ワイマンはこのアルバムを最後に脱退しました。
A Bigger Bang(2005年)
平均年齢60歳になったローリング・ストーンズの、最高傑作揃いのアルバム。
ローリングストーン誌にも「70年代のアルバムに並ぶ傑作」と評され、新旧のファンにも高い支持を得ています。