ジョニー・ラモーン(Johnny Ramone)まとめ!経歴・使用ギター・プレイスタイルなど
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若者のために生まれたようなロックが、高度な演奏技術を必要とする、簡単に真似のできない音楽になってしまった70年代。
街のチンピラグループがスーパースターに、スーパースターがさらに富を得て、もはやロックが反体制の象徴ではなくなってしまった時代に現れたのがパンク・ロックです。
パンクの元祖「ラモーンズ」はアメリカ以上にイギリスで評価が高く、加えて南米でも人気があります。
今まで誰も行かなかった場所へ積極的に赴き、後にその場所で新たなバンドができることもあったとか。
4人組パンクバンド「ラモーンズ」のギタリスト、ジョニー・ラモーンを紹介します!
経歴
本名はジョン・ウィリアム・カミングス(John William Cummings)。
1951年10月8日、アメリカ、ニューヨーク州クイーンズに生まれました。
1974年、ニューヨークのクイーンズ区に住み同じ高校に通っていた4人、ジョーイ(ボーカル)、ジョニー(ギター)、ディー・ディー(ベース)、トミー(ドラム)で「ラモーンズ」を結成。
1976年『ラモーンズの激情』(“The Ramones”)でメジャーデビュー。
70年代中頃は、世の中も戦争が終わり反戦運動や学生運動等が過去となりつつも、経済や世相は低空飛行で推移していた時代です。
同時に反体制の象徴だったロックも停滞気味。
そんな中に現れたラモーンズ等による「パンク」は、ある程度芸術的にも成熟したロックを打ち壊すものでした。
ラモーンズのストレートで激しい楽曲は、特に貧困や不安定な世相に不満を抱えるアンダーグラウンドの若者には急速に受け入れられ、デビュー間もない76年にイギリスツアーが組まれたほどです。
このツアーが後のイギリスでの爆発的なパンクの隆盛のきっかけになりました。
ところで、「ラモーン」はメンバーが影響を受けたビートルズのポール・マッカートニーがアマチュア時代に使っていた名前「ポール・ラモーン」にちなんだもの。
以降4度のメンバーチェンジがありましたが、全員が「ラモーン (Ramone)」の姓を使っています。
ただ、ボーカルのジョーイとは長年険悪な関係だったとか。
音楽に関しては頻繁に意見交換していましたが、女性や政治思想を巡ってかなりこじれていたようです。
Ramones – Touring
メンバーが貫いたのは名前の統一だけではありません。
革ジャンとジーンズという服装や、ジョニーのモズライトという楽器もですが、最大なのは「演奏ポリシー」
トーキング・ヘッズやブロンディなどの同じニューヨーク出身のグループが時間の流れの中で音楽を変化させる中、ラモーンズは解散まで同じスタイルを徹頭徹尾貫き通しました。
これらポリシーや音楽の評価は出身地のアメリカよりもイギリスで高く、ザ・クラッシュやセックス・ピストルズといったロンドン・パンクにとっての大きな影響力となりました。
21枚のアルバムを残して1996年に解散。
バンド解散後、ジョニー・ラモーンはほとんど活動していません。
Ramones – Poison Heart
2004年9月15日、死去。前立腺がんでした。
享年55歳。
臨終には家族以外にもレッド・ホット・チリ・ペッパーズのジョン・フルシアンテやパール・ジャムのエディ・ベダーなどのミュージシャンが側にいたそうです。
ハリウッド・フォーエバー墓地で、2002年に亡くなったディーディー・ラモーンの墓の近くに埋葬されました。
墓碑である銅像がついた記念碑にはヴィンセント・ギャロら友人のメッセージも刻まれています。
楽器とプレイスタイル
ギター
初めて買ったギターがモズライト。
後も長年モズライトのギターを演奏していました。
1966年頃の「The Ventures ModelⅡ」という比較的廉価なモデルを使用。
フロントピックアップをセイモア・ダンカンのミニハムバッカー、リアピックアップをディマジオのシングルコイルに交換するなどしていました。
ジョニーはコードをひたすらかき鳴らすプレイスタイルのため、フレッドが溝状に摩滅してしまい、チョーキングができなくなっていたとも言われます。
他にフェンダー・ストラトキャスターや、リッケンバッカーなども使用しました。
アンプ
Marshall(マーシャル) JCM-800を使用。
基本的にアンプに直結で演奏していました。
Ramones – Substitute
プレイスタイル
そもそも複雑で高度な音楽に成長したロックに代わったものだけあって、パンクは単純明快。
とりわけラモーンズの音楽はシンプルでキャッチーです。
3コードか、多くても4コードしか使わず、リズムは8ビートが中心、曲の長さも2分程度しかありません。
さらに、ジョニー・ラモーンの演奏は単純なカッティングのみ。
ただ、最初はダウン・ピッキングのみでしたが、後期にはオルタネイト・ピッキングも交えたより高速なものになっていきました。
技巧派ではなくソロらしい演奏もありませんでしたが、この演奏を見聞きした若者がロックを始めるきっかけにもなりました。
代表作品
ラモーンズの激情(1976年)
テクニックばかりが重視されるようになっていた70年代アメリカの音楽シーンに新しい一撃を与え、ロックの魅力を再発掘したともいえる名盤。
ライダーズ・ジャケットと破れたジーンズ、伸ばしっぱなしのマッシュルームヘアという出で立ちの4人は、まるでコミックから飛び出したようで目を引きました。
その後20年以上変わることなく繰り返し、世界のパンク・バンドから尊敬のまなざしを送られ続ける、高速スリーコード・ロックの始まりとなったアルバム。
Leave Home(1977年)
1作目と3作目に挟まれて見落とされがちですが、2作目のこちらも名盤です。
この3枚のアルバムはロック史上でも重要と評価されており、見逃せません。
50年代から70年代のロックに影響を受けつつリスペクトしている部分や、吸収して確立した自分たちの音楽を表現していますよ。
60sサーフバンドのリヴィエラズをカバーした「カリフォルニアサン」も収録。
Rocket to Russia(1977年)
初期の最高傑作と言われる3作目のアルバム。
ベスト盤には収録されていませんが、素晴らしい曲が多数入っている名盤です。
Road to Ruin(1978年)
このアルバムから、ドラムがトミー・ラモーンからマーキー・ラモーンに代わりました。
End of the Century(1979年)
ラモーンズ最大のヒットアルバムで、おそらくは一番ポップな作品。
ハードなサウンドを期待したコアなファンにはあまり歓迎されないようですが、ラモーンズのメロディアスでロマンチックな一面を前に押し出した一枚です。
現在も大リーグの試合でこのアルバムに収録された曲が演奏されたりと、アメリカ人にはお馴染み。
Too Tough to Die(1984年)
訳せば「殺しても死なないぜ」というこの作品、商業的にはメタルやニューウェイブが流行っていた80年代において、ロックはこうあるべきというラモーンズらしい姿勢を表しています。